TOPページ → 紙の博物館 → 静岡県の紙業の歴史1/2 |
製紙の紀元は、西暦105年頃、中国後漢時代に、宮中の用度係の長官であり、手工業の主任であった蔡倫(さいりん)が、麻や絹のぼろ切れなどを原料にして、現在の紙の原型を作ったことに始まります。これを蔡候紙(さいこうし)と呼びます。 しかしその製法は長い間秘密にされていたため、日本に伝わったのは、西暦610年頃・推古天皇の時代になってからでした。、高麗の僧・曇徴によってもたらされたものを、聖徳太子が工夫改良を行い、普及させたと言われています。その後、独自の和紙文化を築き、様々な種類の紙を生産しますが、いずれも一枚一枚手すきでつくるため、家庭内工業の域をでないまま、明治維新の洋紙の流入を迎えます。 西方への蔡候紙の伝播は、751年の唐とサラセン帝国の戦争によって捕虜になった紙すき職人がいたことに始まります。757年にはサマルカンド(現在の あたり)に最初の製紙工場が造られました。麻のぼろ布を原料とした紙は、当時西域の主流だった羊皮紙より、あらゆる点で勝っていたために、瞬く間に近隣諸国に伝わり、12世紀から14世紀に掛けて、ほぼ全ヨーロッパに普及を果たしました。 14世紀、イタリアのルネッサンスやドイツのグーテンベルくによる印刷機の発明などで、紙の需要はますます増していきます。1798年にフランスのるい・ロベールが紙すき機械(沙紙機)を発明。その後の改良と、紙パルプの利用によってで、製紙はついに、大量生産工業としての発展を遂げていくことになります。 アメリカへの伝播は1690年頃。そして海を渡って日本に伝わったのは、明治維新直後の1871年(明治4年)です。手すきの和紙と違って、大量生産ができる洋紙は、近代日本の主要工業として発展し、現在に至っています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
<参考文献> | :「おもしろい紙のはなし」日刊工業新聞社 :「紙と日本文化」日本放送出版協会 :「紙の道百年」静岡紙業協会 :「富士市の工業」富士市商工農林部 |