TOPページ → 紙の博物館 → 静岡県の紙業の歴史2/2 |
静岡県の紙の歴史は、奈良時代の手すき和紙から始まったといわれていますが、歴史上の記録では、室町時代に登場する修善寺紙が最古のものです。江戸時代に入り、駿河半紙と呼ばれる和紙が登場し、その品質の高さから全盛を極め、静岡県製紙業界の代表的なものとなりました。これは、手すきに適する静透な軟水が豊富なことと、「こうぞ」、「みつまた」等自生の和紙原料に静岡県が恵まれていることによります。その後、明治に入り、12年頃この半紙を純白に改良して販売したところ大いに好評を博しました。 このように、静岡県手すき和紙は、明治28年頃まで隆盛の一途をたどりました。しかし、明治中期より、洋紙技術が導入され、機械抄紙が発達し、和紙も機械化されて手すきの和紙は漸時衰退し、現在はほとんど皆無となっています。 この急速に台頭してきた機械すき和紙の企業は、いずれも県外の大資本を導入し、精巧な機械を輸入して逐次大量生産を開始していきましたが、明治28年富士郡下の有志が、富士郡原田村に原田製紙を設立、数年にして、良質紙を製造するに至ったことが他の地元資本の導入を促し、現在の産地を形成する基盤となりました。 一方、県内近代製紙工場の成長の過程を見ると、パルプ工業は、明治22年、王子製紙が周智郡気多村で亜硫酸パルプの製造を開始したのが始まりで、これは静岡県のみならず、わが国におけるパルプの発祥の地といわれています。次いで富士製紙(現・新富士製紙)が明治23年富士郡鷹岡村に、王子製紙が32年佐久間村に、それぞれ工場を設立し、31年には四日市製紙が富士郡芝富村で、40年には東海紙料(現・東海パルプ)が現在の島田市に設立されて製紙事業が開始されました。 このように、県内の木材資源が豊富で水の便利な地区に早くから紙・パルプ工場が設立されて、県下の工場の数は36社を数えるに至りましたが、その後、支那事変からの戦時体制への突入により、企業整備が進行されていきました。 戦前戦後の混乱期を経て、昭和25年7月から朝鮮動乱ブームによる紙景気が訪れ、休転していた工場が操業を再開し、再び工場の新設が相次ぎました。県内でも昭和27年に大昭和製紙、本州製紙などの大手工場を中心として長網抄紙機の導入等、設備の拡張が進み、県内でも60有余の長網の運転が始まりました。 しかし、昭和27年に外貨不足からデフレ政策が実施されると、市況は不振となり、大量の在庫を抱え込む状況となりました。このように、昭和25年以降、製紙業界は大小7回の景気変動を経験した後、43年には、紙の設備規制が全面的に撤廃され、大手は国際競争に耐える体質強化を図り、業界の再編成が行われました。 一方、中小も脱墨・漂白を中心とした古紙再生技術を向上させ、ちり紙、トイレットペーパー、印刷せんか紙などの全国有数の産地として確立していきました。 ところが、昭和40年代から顕著になった田子の浦港のヘドロ問題は、拡大成長を続けてきた製紙の歴史の中で、初めて社会問題として表面化した課題でした。製紙業界は、その試練によく耐え、数々の環境保全対策を打ち出し、昭和50年代半ばには、公害問題について一応の解決をみるに至りました。 その後、昭和48年、53年の2次にわたるオイルショック、54年の木材チップの高沸等供給面における制約や、国内経済の成長率の鈍化、樹脂等他素材による代替え等、需要面における制約があったものの、紙需要は拡大を続け、現在世界第2位の紙生産国となっています。 |
<平成12年・静岡県商工労働部発行「静岡県の紙業」より引用>